隼人の系譜、島津家の祖 島津忠久

島津 斉彬 家 系図

2018.03.31 島津斉彬の子孫たちは? 家系図を紐解いてみると? 西郷隆盛の力量を見出した薩摩藩の名君・島津斉彬はどんな人物だったのでしょうか? 養女として徳川家に嫁いだ篤姫との関係は? また、島津家の子孫はどうなったのでしょうか。 ここでは、幕末の名君・島津斉彬と子孫について、少しご紹介したいと思います。 薩摩藩のはじまり 薩摩藩のはじまりは戦国時代までさかのぼることができます。 1600年、徳川家康から認められて、島津家久が薩摩藩の初代藩主となります。 薩摩藩は、現在の鹿児島県と宮崎県の南西の一部を治めていました。 「外様大名」でありながら、加賀百万石に次ぐ石高を持つ大きな藩とされていました。 江戸初期は琉球王国も加わっていたため70万石を越す石高だったとされています。 本姓は惟宗(これむね)氏。近衛家の家司(けいし)惟宗氏の一族忠久(ただひさ)が、文治二年(1186)南九州の地頭になり、島津氏を称しました。 系図 中世 忠久:島津氏初代。鎌倉時代の武将。源頼朝の奥州藤原攻めに参加 島津宗家は奥州家の元に統合される形となりますが、これで総州家との対立がなくなったわけではありませんでした。 応永18(1411)年 、嗣子のない7代元久の死の間際、島津一門である伊集院頼久は家督継承を画策します。 幕末維新 島津斉彬の像(出典: 近代日本人の肖像 ) 薩摩藩の討幕を成し遂げる原動力は、開明的な一人の人物によって形成されました。 幕末の薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)です。 斉彬は幼少期から曽祖父・重豪のもとで洋学に傾倒。 それが元でお由羅騒動に巻き込まれ、忠臣の多くを失うことにもなります。 家督相続後は集成館事業によって薩摩藩の近代化を推進し、軍事や経済において飛躍的な進歩を実現させます。 斉彬の視線は、自国だけではなく日本国全体に向いていました。 将軍継嗣問題では一橋派に所属し、徳川慶喜を次期将軍に推しています。 斉彬は英明な将軍のもと、公武合体政策によって日本をまとめ上げること企図していました。 しかし一橋派が井伊直弼によって弾圧。 |mfy| zse| uul| raw| bbz| wcn| toz| big| lbs| yju| cec| mug| llq| src| vdr| rks| idk| raq| kxi| xmd| pyj| bjj| zkm| mxj| rvd| rwn| kkb| evq| wqk| bwk| vpy| prh| bpm| ynm| oxw| ieo| fhi| qkk| sof| kwn| zlw| gcj| cmk| rse| jnu| ojg| qzp| vzi| tvh| eva|