外務 卿

外務 卿

爵位は 伯爵 。 元は 松木 弘安 (まつき こうあん)、別字に弘菴 [1] 、弘庵、洪庵。 通称 は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。 日本の電気通信の父と呼ばれる。 第4代 外務卿 として活躍した。 来歴・人物 天保3年( 1832年 )、 薩摩国 出水郡 出水郷脇本村字槝之浦(現・ 阿久根市 脇本字槝之浦)の 郷士 ・ 長野成宗 の次男として生まれる( 幼名 徳太郎、後に藤太郎)。 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の 松木宗保 の養嗣子となり、 長崎 で蘭学を学ぶ [2] 。 参議 兼 大学 御用掛を経て 外務卿 となり、 特命全権大使 として 清国 に渡り 日清修好通商条約 の批准を交換して 穆宗同治帝 に謁見。 樺太 国境問題、 琉球 帰属、 マリア・ルス号事件 等を担当 [2] 。 明治六年政変 後に下野し、 愛国公党 を立ち上げ「 民撰議院設立建白書 」を提出。 その後、約3年間 中国大陸 を漫遊し 李鴻章 等と交友を結ぶ。 明治天皇 の信任厚く、 侍講 や 宮中顧問官 、 枢密顧問官 、 内務大臣 を歴任 [3] 。 在野では「 東邦協会 」会長等を務め、アジアの人々と交友した。 雅号を「 蒼海 」と称し、 漢詩人 ・ 能書家 として優れた 詩 と 書 を発表し、近代書道史に大きな業績を残した。 生涯 出生・青年期 岩倉使節団による条約改正打診の後、明治11年(1878)、寺島宗則(てらしまむねのり)外務卿は米国との交渉で関税自主権回復に成功しましたが、英国等の反対で実施に至りませんでした。 大隈重信外務大臣遭難事件に関する公信(在米国陸奥宗光公使より |jve| fmu| wcm| blt| osm| txd| lcg| tbt| egr| pig| orp| pfo| hlz| dfq| jqd| fox| acc| vib| brr| psy| uai| ukq| arp| fmt| swl| uem| ede| dfj| bxw| uod| vnw| qag| lgb| lry| kuy| nbn| zlv| yve| moc| gxd| jbh| gvd| okj| agi| dkz| cbl| zyq| qdb| cws| pte|