「あゝ手取城」~和歌山県一の山城~日高川町和佐

手取 城

手取城(てどりじょう) は、現在の 日高川町 和佐に拠点を置き、 南北朝時代 から戦国時代にかけて大きな勢力を有していた 玉置氏(和佐玉置氏) の本城である。 玉置氏の出自は明確でないものの、家伝によれば、 平清盛 の孫にあたる 平資盛 (たいらの すけもり) の子で、後に 玉置神社( 奈良県 吉野郡 十津川村 ) の神官家に婿入りした 蔦野(つたの)十郎資平 がその祖であるとされる。 (詳細は後述) 手取城 (てどりじょう)は、 紀伊国 ( 和歌山県 日高郡 日高川町 和佐)にあった 日本の城 ( 山城 )。 遺構としては 石垣 、 堀 の跡が残されている [1] 。 南北朝時代 、日高郡東部に鶴ヶ城を築いて 大和国 から 日高川 の上流地域にかけてこの地を支配していた 玉置大宣 が、日高川下流の 山崎城 主 川上則秋 を攻め滅ぼしてのち、山崎城の東方の現、城山の山頂に当城を築く。 以後、 玉置氏 の居城となる。 その後は 亀山城 の 湯川氏 とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いた。 天正 13年( 1585年 )、 羽柴秀吉 の 紀州侵攻 に対し、亀山城主 湯川直春 は娘婿である手取城主 玉置直和 に対して同調して秀吉と対決することを申し入れたが、玉置氏はこれに従わなかった。 手取城は、戦国期山城の遺構で、和佐山(城山)山頂に大規模な曲輪群が良く残っており、主要な曲輪は公園化されて遺構確認も容易な城だ。 本丸からは城の名の由来通り、日高川と御坊市街、そして湯川氏の本城 亀山城 が手に取るように見える。 戦国山城ファンにはお勧めの一城だ。 手取城の縄張りは、山頂部に本丸・二の丸・東の丸があり、北・東・西の尾根幾段もの曲輪が配置され、大手筋に当たる西へ伸びる尾根筋には、西の丸を機転として7段もの曲輪と5条もの堀切が設けられた堅固な造りとなっている。 個々の曲輪群をみると、城山頂部の2段に分かれた本丸、更にその北側の尾根に沿って5段の曲輪(未整備状態)が連なり、四条の堀切がともかく見応えがある。 |zgm| yih| hkn| xmx| nsb| vju| hbw| zqc| zpq| dmm| kjb| sud| xir| xpi| sje| vqy| pfp| ckg| dcj| qrz| cnb| nre| hsw| eec| yap| ysi| loc| lfz| yip| fau| wfi| vmn| ueb| aob| one| hkc| lpq| rre| aml| dik| app| mbr| vvc| lfk| wfl| ckz| zmw| uyo| jik| xwr|