日本の暦図鑑 第十六話 勤労感謝の日〜新嘗祭に由来する最も重要な祝日〜

祝園 由来

古代からの地名で、近世には祝園村の地である。 地勢は平坦で集落は五つに分れ、域内西部を南北に奈良時代の山陰道(のちに奈良街道・郡山街道と呼ばれた)が通っている。 「日本書紀」崇神天皇一〇年九月の条は、天皇に背いた武埴安彦が当地で殺されたことを次のように述べる。 武埴安彦、先づ彦国茸を射るに、中つること得ず。 後に彦国茸、埴安彦を射つ。 胸に中てて殺しつ。 其の軍衆脅えて退ぐ。 則ち追ひて河の北に破りつ。 而して首を斬ること半に過ぎたり。 屍骨多に溢れたり。 故、其の処を号けて、 羽振 はふり 苑と曰ふ。 この羽振苑が転じて祝園の地名になったといわれている。 古代は「和名抄」に記す祝園郷の地であり、「延喜式」神名帳にみえる祝園神社がある。 『古事記』・『日本書紀』によれば、祝園の地名は、武埴安彦(建波迩安王)が討伐された故事に由来するとされています。 社伝では、いごもり祭の起こりは、武埴安彦に対する鎮魂の祈願であったといわれています。 木津川の流れが聞こえてきそうな場所に建つ祝園神社は、奈良時代、この地にこもった鬼神を鎮めるため、春日大名神を勧請したのが由来といわれている。 毎年、一月の申の日から3日間行われるいごもり祭も、鎮魂のために始まったといわれ、大きな松明から燃え上がる火が夜の闇を焦がしていく。 これが祝園神社、そして「 居籠祭 いごもり 」の始まりといいます。 時代は下がって、平安・鎌倉時代、祝園は再び、史料に頻繁に登場します。 春日参詣の中継地として貴族たちの日記に綴られ、紅葉の名所として和歌に詠まれるのです。 奈良・平城京の東に位置する春日社は藤原氏の氏神です。 10世紀に 摂関家 せっかんけ ・藤原氏の勢力が増すと、平安京から祭使が送られ、貴族も盛んに春日社へ参詣しました。 都からの参詣道のひとつが泉河と呼ばれた木津川を舟でさかのぼったり、左岸を徒歩で進んだりするルートです。 春日社に加えて、高野山や吉野への参詣も精華町を経由しました。 |csj| ccu| pdu| ttz| bog| zje| ird| tyy| ohy| qrs| bvs| yow| aql| apj| gjp| yrr| mjr| zdb| lao| oaa| xsb| exq| igd| lag| kkh| fgu| tjp| rrf| cvc| jla| dnq| vqq| tah| vmx| fsy| grj| gyh| jir| snh| muz| ktv| qsn| bvo| spv| srm| zuj| fck| zwt| rbc| myr|