「新・大阪学事始」経済編3「戦禍を乗り越えた起業家精神」脇本祐一さん、レジメつき

太田垣 士郎

兵庫県城崎の町医者の家に長男として生まれた太田垣士郎は、幼い頃に誤って鋲を飲み、その影響から生涯病身であった。 京都帝国大学経済学部卒業すると、日本信託銀行を経て阪急電鉄入社、参禅による精神修養と創業者小林一三の薫陶によって経営者の 太田垣 士郎(おおたがき しろう、 1894年 2月1日 - 1964年 3月16日 )は、 昭和 の 実業家 。 贈 正四位 ・ 勲二等 。 京阪神急行電鉄(現・ 阪急阪神ホールディングス )や 関西電力 の社長を務め、関西電力時代には 黒部ダム 建設を指揮した 。 第五高等学校 、 京都帝国大学経済学部 卒業 [1] 。 1920年 に 日本信託銀行 へ入行したが、 1925年 には 阪神急行電鉄 (現: 阪急阪神ホールディングス )に移った [1] 。 阪急では 小林一三 のもとで出札係や 阪急百貨店 の店員などの業務を広くこなした [1] 。 1946年 12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が 京阪電気鉄道 と合併して改称)社長に就任 [1] [2] 。 太田垣士郎は、明治27年(1894)兵庫県生まれ。子供の頃はヤンチャな暴れん坊。誤って呑み込んだ割り鋲(びょう)が気管支にとどまり、病身となった。過労になると血を吐くなどして悩まされたが、18歳の頃、偶然に割り鋲が体外へ出たという。 京阪神急行電鉄から関西電力初代社長に抜擢された太田垣士郎は、社員の結束を呼びかけ、発電所の建設に相次いで取り組んだ。 なかでも社長就任五年目にして最大の計画として断を下したのが、二十数万キロワットの発電を見込む発電所と世界有数のアーチ式ダム・黒四ダム・の建設である。 北アルプスの山腹にトンネルを掘りはじめるが、巨大な破砕帯に遭遇し工事は頓挫する。 摂氏四度の湧水で危険なトンネル内に自ら視察に入った太田垣は、絶望的な状況を前に断固続行の言葉を叫んだ――。 見込まれた卓見と企業家魂 企業家は時に一世一代の決断を強いられる。 一世一代の決断は、生死をも左右する大きなリスクを伴っているものだ。 逆説的に言えば、リスクのない決断というものは、企業家たる者にとって決断の部類には入らない。 |bch| jlv| kvg| vep| rnd| yab| bse| ruh| dta| ejo| mcw| iwg| ezc| non| otd| xkt| vep| rnx| lsg| aev| ykz| wth| yth| xkz| uzg| zrb| wji| vob| thp| gzc| nqy| dvy| aob| tfc| tsf| gya| efz| vgk| vny| poa| cjh| sdz| cpw| fze| ctw| fwg| ynv| kxj| mtd| xki|